こんにちは、加藤です。今日もお邪魔しますね。
2月18日、義理の母「りんちゃん」が、
この世を去りました。
21日、22日、たくさんの人に囲まれて
盛大な葬儀が終わったところだよ。
りんちゃんについては、
以前ブログで紹介したことがあるね。
享年95才。誕生日の前日の旅立ちでした。
最後は肺炎だったけれど、
亡くなる前11年間は、ベッドに寝たきりで、
家で介護をしていたんだよ。
りんちゃんは、今の「八百金加藤商店」の土台を
作った人でね。
若い頃、夫と一緒に、リアカーに野菜や果物を積んで
売り歩いたところから始まったんだよ。
子どもをおんぶしながら歩いたそうだよ。
大変だったろうね。
そして、今の平井駅前に居を構えることができたんだよ。
りんちゃんは、働いて、働いて……
だから、彼女の手はいつもひびとあかぎれでごわごわ。
私とりんちゃんとの関係は、嫁と姑の関係だったけど、
決して、私の悪口を言ったことがなかった。
「お前は、私の娘になったんだよ」
って、結婚したとき言ってくれた。
今思うと、りんちゃんは完全な私の理解者だった。
さて、話は11年前にさかのぼるね。
ちょうどその頃、りんちゃんはアルツハイマーを発症しはじめた。
夫を亡くした直後で、さみしかったんだろうね。
私の家のカギをこじ開けて、夜となく昼となく勝手に入ってくる。
私は、それが苦しくてね…それで、ある日、扉にチェーンをかけた。
入ってこられないように…
りんちゃんは扉をどんどんたたきながら、
「どうしてお前は、扉を閉めるんだい。冷たいね。どういう仕打ちだい!」
…そして、その日以来、りんちゃんは寝たきりになった。
あの日の光景がまざまざとよみがえってくる。
今は、それがアルツハイマーという病気のなせる技と理解できるけど、
あの当時は、とてもそう思えなかった…
そして、その時以来、
義母に対する大きなわだかまりができちゃった…。
介護もやるべきことはやった。
だけど、心はどこかドライで、
りんちゃんに対して、どこかクールにとらえちゃう自分がいた。
そうとわかっていても、
そのかたくなな塊は、自分ではどうすることもできなかった…。
りんちゃんがなくなる2週間ほど前、
オーロラのHPに載っているロータス・プログラムのシェア
『義理の母は私だった。私は義理の母が大好き』を読んだんだ。
そのとき、思ったよ。
「私にも、その時がきた!」って。
義理の母と私、嫁と姑。
私は今まで、りんちゃんに「ありがとう」って
言ったことがなかったけれど、言ってみようと思った。
病床で苦しそうに寝ている義母に、勇気をふりしぼって…
「…ありがとう…」
次の日の朝、心が溶けていくような感じがした。
りんちゃんに対して閉じていた扉が1つ開いた。
心の扉は1つ開くと、次々と全部開いていく。
そうしたら、わかった。
あの当時、りんちゃんは私に救いを求めるために、
鍵を開けたんだって…
「りんちゃん、ごめんね。いい嫁じゃなくて。
りんちゃんのこと大好きだよ」
りんちゃんにしっかりと伝えた。
りんちゃんは苦しい息をしながら、
「わかっているよ」って…。
もう目を見開くことはなかったけれど、
そう答えてくれた気がした。
そして、私の中にあった嫁と姑の確執がすべて溶けていった…。
りんちゃんが生きている間に伝えられてよかった…。
そして、この言葉を伝えるために、
りんちゃんは頑張って、待っていてくれたんだって思った。
私、初めて、りんちゃんの娘になれたよ。
たくさんのありがとうが、
私のハートから生まれて胸がいっぱいになった。
病室には、私とりんちゃん二人きり。
私は、りんちゃんの大好きな歌
「海」「ふるさと」「みかんの花咲く丘」を、
愛を込めて歌ってあげた。
そしたら、りんちゃんの目に涙がこぼれた。
びっくりした。
だって、りんちゃんの口癖は
「私は泣いたことがない。どんなときでも、涙が出ないんだよ」
だったから…。
うれしかった。
りんちゃんにすべて許してもらった。
そして、許しあえたと思った。
私も涙、涙、涙で声がふるえ、歌いながら泣いた。
りんちゃんは、もう開けることのできない目で泣いてくれた。
そして、次の日、
りんちゃんは、家族に見守られ、眠るように息を引き取った。
りんちゃんの真っ白い髪の毛にかわいいお花をかざってあげたくて
白とピンクのお花をプレゼントした。
花嫁のように美しかった。
告別式の日の朝、夢を見た。
大海に、七色の光輝くいくつもの虹が出ている夢。
りんちゃんは、きっと虹を渡って、天国に行ったんだね。
私、初めて、りんちゃんの娘になれたよ。
最後に、りんちゃんの写真をみんなにシェアするよ。
みんなも祈ってね。

では、またね。
愛を込めて。